アーティスト奇談

一般的に、アーティストというと、自殺や精神病が付きものの様に思われている。

更に、ドラッグや、スキャンダル。どれも、普通の人間なら関わりたくない話だろう。

私に言わせれば、アーティストなんて、

100本の薔薇の花束を抱え、こめかみにに冷たい銃口を当てながら心の叫びを聞いている人達。

また、そうでないと言うなら、何かを作っていても、私の中のアーティストのカテゴリーには入らない。

それが、私にとって、工作と芸術の違いだ。

 

アーティストの基本は、何かに捧げる作品を作ることだと信じている。

かつてヨーロッパでは、神に捧げる作品を沢山作った。今でも、教会はアート作品そのもので、

キリストや、聖書が題材とされた有名な作品が数多く残っている。

王族、貴族がパトロンになり、才能を発揮できたルネッサンス。でもそれは、庶民を無視した傲慢な歴史でもある。

 

現代美術は、誰にでもチャンスがあり、皆平等に見える。

でも、結局の所、人間は平等ではない。天才は99%が努力と言うが、これは天才も努力をしていると

いう意味ではない。どんなに努力しても、1%の才能があるかないかで、

天才には届かないと言うことなのだ。

 

何かに捧げると言う話に戻るが、自己満足で作品を作る場合、自分にでも捧げているというのか?

ただ、誰かに褒められたいというのも、自分がそれで満足したいと言うことだ。

人間は欲望の生き物で、満足するために行動を起こす。美味しい物を食べ、素敵な仲間に囲まれ、

楽しく生きたい。もう、立派に欲張りだ。

 

でも、アーテイストは貪欲で良い。筋金入りの欲張りで良い。誰にも負けない作品を作り、高い評価を得なければ、

この世において、何も満たされない。そして、お買い上げ頂きたい。やはり、お客様は神なのだ。

もう、ここには、貴族のパトロンも、教会も無い。

 

私は、作品を作りながら息ををしている。かつて香りを吸い込みながら調香をしていたが、今は、

息を吹きながら、ガラスを吹いている。止めたら、息が止まってしまう。

制作は、息をする手段だ。息をするのもやになったら、引き金を引くしか無い。

私は、まだ、生きていたい。

 

アートとは、フロンティアスピリット。無から、有を生み出すこと。壁を壊すには、相当のエネルギーが

必要だ。この世界にロボットが蔓延しても、彼等は、アーティストにだけはなれない。

 

昔、むさぼるようにアメリカ純文学を読んだ。サリンジャーが好きだった。

ナインストーリーズの『バナナフィッシュにうってつけの日』シーモアが、何故こめかみに当てた

拳銃の引き金を、引いたのかもう一度考えたくなった。ふらっと書店に入り、

単行本を買った。